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第2章 「いわき市・東日本大震災の証言と記録」記録誌及びDVD(平成25年3月25日発行) | いわき市役所

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(1)

〈小名浜〉

 小はまこうは南に向いた港であり、南東方向からの津波をまともに受ける恰好になったが、防波堤が幾重に も配置されているため、津波の速度や強さが弱められた。それでも複数の防波堤にぶつかった波は回転しな がら直接「いわき・ら・ら・ミュウ」や「アクアマリンふくしま」などの沿岸の建物を襲い、大きな被害を 出した。(写真2-32、図2-24)津波は小名浜港の各埠頭を越え、その奥の工場地帯の一部も飲み込んだ。

写真2-30 大平川を溯上した津波は大平橋を破壊

〔4月23日 いわき市撮影〕

図2-23 小名浜地区〔永崎、小名浜下神白〕の津波到達範囲の概況図②

〔1:25,000地形図〈原寸×1.05〉 小名浜(平成18年更新) 国土地理院発行〕

 津波の高さは永崎字川かわばたで5.38mであった。(図2-15)  津波の被害を受けた永崎小学校には、学童保育中の児 童が20人ほど残っていたが、津波が来る前に、教職員 の誘導で高台にある洋ようこうだいの中央公園に避難した。  全壊家屋(流出・撤去・条件付再生可)が37%、大規模半 壊家屋が18%、半壊家屋(床上浸水)が26%と被害の程 度は分散した。

 永崎地区においては、直接死 で7人が亡くなった。

〈小名浜下神白〉

 小はましもじろの津波被災人口・ 世 帯 数 は、520人、200世 帯 で あった。

 永ながさきかいがんの南域、堤防こそ海 岸に沿って築かれていたが、津 波は堤防を乗り越えて内側の集 落を襲った。海沿いのいわき海かいせい

こう

こう

校舎、下神白保育所は壊 滅的な被害を受けた。小河川の 神じろがわを伝って津波が駆け上が り、溢水し浸水区域を広げた。 津波の高さは小名浜下神白字 松まつ

した

で6.81mを記録した。(写真 2-31、図2-15、23)

 被害については、半壊(床上 浸水)の割合が高く、56%を占 め た。 全 壊 家 屋( 流 出・ 撤 去・ 条件付再生可)は12%であった。 神白川から溯上した津波が被害 を大きくした。

 小名浜下神白地区において は、直接死で2人が亡くなった。

写真2-31 職員の円滑な避難誘導で難を逃れた下神白保育所

〔4月23日 いわき市撮影〕 図2-24 小名浜地区〔小名浜〕の津波到達範囲の概況図③ 〔1:25,000地形図〈原寸×0.92〉 小名浜(平成18年更新) 国土地理院発行〕

(2)

写真2-32 アクアマリンパークも大きな被害

〔3月25日 佐藤貴行氏提供〕

 湾内に停留していた漁船や作業船などの多くも破壊さ れて、一部は陸に押し上げられた。

 その一方でこれら建物が盾となって、市街地に流入 した波の勢いは弱められ建物の大きな被害とはならな かった。しかし、低地に密集した市街地の公共施設や商 店、事務所、一般家屋などに広く浸水の影響を与えた。

(写真2-33)

 また、港湾の一角に流れ込む小河川の小がわは都市河 川でもあるため、ここを溯上した津波も溢れ、市街地に

オ 勿来地区

〈小浜町〉

 竜りゅうぐうみさきと離はなれ山やまに囲まれた狭い湾に 成立した小規模な漁港・小ばま漁港は南 に開いていることから、まともに津波 の影響を受けることになった。津波被 災人口・世帯数は、164人、56世帯で あった。

 漁業施設と集落が被害を受け、津 波の高さは小浜町渚なぎさで7.1mに達した。

(写真2-36、図2-15、26)

 小浜では全壊家屋(流出・撤去・条件付 再生可)が49%と高い割合を示した。大 規模半壊家屋も19%を占めた。

写真2-35 いわきサンマリーナに係留されていたヨット群を

〔3月11日午後3時50分ごろ 福島県消防防災航空隊提供〕襲う津波

図2-25 小名浜地区〔泉町下川〕の津波到達範囲の概況図④

〔1:25,000地形図〈原寸〉 泉(平成18年更新) 国土地理院発行〕

〈泉町下川〉

 泉いずみまちしもがわでは剣つるぎみさきが海に突き出ているため、岬に南方 から押し寄せた津波がぶつかり岬北側の工業団地の奥ま では津波が来なかったが、それでも大おおつるぎとうや藤ふじわらとう では被害が生じた。壊滅的な被害を受けたのは南側に位 置する「いわきサンマリーナ」であった。桟橋などの施 設は破壊され、約150艇の係留ヨットも津波によって流 された。

 泉町下川字大おおはたにおける津波の高さは6.69mを記録し た。(写真2-35、図2-15、25)

 泉町下川地区においては、直接死で1人が亡くなった。

写真2-36 漁港から奥へ、県道を越える津波

〔3月11日午後3時45分ごろ 福島県消防防災航空隊提供〕

 小浜町においては、直接死で2人が亡くなった。 広く及んだ。小名川

につながる用水路の 水も溢れながら溯上 していった。   各 埠 頭 で は 施 設 の損壊や関連道路、 バース(岸壁)の亀 裂・陥没などの被害 が生じ、海上物流の 機能が麻痺した。(写 真2-34)

 藤ふじわらがわを溯上した 津波は工場地帯を抜 け、矢がわとの合流 先まで達した。  小名浜地区におい ては、直接死で2人、 関連死で7人が亡く なった。

写真2-33 小名浜市街へ浸水する津波 〔3月11日午後3時50分ごろ 福島県消防防災航空隊提供〕

写真2-34 小名浜港5・6号埠頭先端の道路陥没

〔4月 常磐共同火力㈱勿来発電所提供〕

(3)

〈岩間町、佐糠町〉

 岩いわまちは竜りゅうぐうみさきの西側に位 置し、南に開いた砂浜海岸で あった。このため、南方から の津波は昭和30年代に築造 された防波堤を基礎部分から 弾き飛ばして、海岸に沿った 家屋を破壊した。岩間町岩いわした では高さ7.66mに達して集落 を飲み込み、甚大な被害をも たらした。津波被災人口・世 帯 数 は、306人、134世 帯 で あった。(図2-15、26)

 岩間町の南隣・佐ぬかまちには 海岸部に常じょうばん共同火力㈱勿こそ 発電所の建物があり、防波堤

図2-26 勿来地区〔小浜町、岩間町、佐糠町〕の津波到達範囲の概況図①

〔1:25,000地形図〈原寸〉 勿来(平成18年更新) 国土地理院発行〕

写真2-37 防波堤を破壊して岩間集落を襲う津波。写真右の発電所にも押し寄せる津波

〔3月11日午後3時46分ごろ 福島県消防防災航空隊提供〕

を越えた津波によって被害を受け、稼動中の7号機、9号機の運転が停止した。また、この近くを流れる塚つかはら

がわ

を溯上して津波は広く佐糠町の住宅街奥まで及んだ。しかし、ここでは火力発電所の大きな建物が、背 後に密集した住宅地の盾になって津波の勢いを弱めたものと考えられる。(写真2-37)

 岩間町では全壊家屋(流出・撤去・条件付再生可)が42%と高い割合を示した。大規模半壊家屋も33%を占めた。 岩間町においては、直接死で10人が亡くなった。

〈鮫川、錦町須賀〉

 河川延長約60kmの鮫さめがわは広い河口域を持ち、河川敷も広いため、本流そのものが溢水することはなかっ たが、溯上は8kmにも及んだ。(写真2-38、図2-27)

 鮫川本流の溢水はなかったが、支流の渋しぶかわなどが溢水して、植うえ市街や佐ぬかまちに広く浸水した。

図2-27 勿来地区〔植田町、鮫川、錦町〕の津波到達範囲の概況図②

〔1:25,000地形図〈原寸〉 勿来(平成18年更新) 国土地理院発行〕

写真2-38 津波が広い鮫川河川敷を遡上

〔3月11日 緑川貴之氏提供〕 写真2-39 津波が押し寄せる須賀集落

〔3月11日午後3時41分 門馬俊治氏提供〕

 鮫川河口付近右岸の支流・中なかかわと海岸線に囲まれた錦にしきまちは防波堤からの津波と中田川を溯上して溢 れた津波の挟み撃ちの恰好となって被害が拡大した。津波被災人口・世帯数は、172人、58世帯であった。 津波の高さは6.7mを記録した。(写真2-39、図2-15、27)

 錦町須賀では全壊家屋(流出・撤去・条件付再生可)が67%と高い割合を示した。大規模半壊家屋も23%を占め た。

 須賀集落においては、直接死で1人が亡くなった。

 また、津波は堤防のない中田川から溯上し、沿岸の水田に広範囲に流れ込み、塩害を引き起こした。

(4)

写真2-41 被災した地域集会施 設・九面集会所

壁面にヒビが入った。各地域で所有・ 管理する多くの集会施設も地震や津 波で破損した。

〔平成24(2012)年1月 いわき市撮 影〕

〈勿来町関田、同九面〉  勿こそかいすいよくじょうを含む勿来 海岸では、遠浅の海底地形 にもかかわらず、大きな被 害につながらなかった。近 年、海岸侵食を防ぐため沖 堤防(人工リーフ工)が築か れたこと、南方からの津波 を茨いばらけん側の岬がさえぎっ たことが要因であった。関せきでは高さ5.94mの津 波であった。(図2-15、28)  それでも蛭びんがわの支流・ 障しょう

がわ、さらには関田川が 溢水して水田を覆い、塩害 を引き起こした。

 また、勿来町九ここづらの勿来 漁港では侍さむらいみさきと鵜みさきに 囲まれ、Ⅴ字形の湾口が開 いた地形であったが、北向 きであったことで大きな被 害につながらなかった。津 波が押し寄せ係留されてい た船の一部は打ち上げられ たが、大半の船は沖に逃れ、 大きな被害とはならなかっ た。九面九うらまちにおける津 波の高さは4.9mを記録し た。

(写真2-40、図2-15、28)

図2-28 勿来地区〔勿来町関田・九面〕の津波到達範囲の概況図③

〔1:25,000地形図〈原寸×1.09〉 勿来(平成18年更新) 国土地理院発行〕

写真2-40 津波で湾内の漁船 が打ち上げられた勿来漁港

〔3月12日 渡辺徳二氏提供〕

3 被害の概況と特徴

(1) いわき市における各種の被害概況

① 人的被害

 いわき市において、東日本大震災の被害者の多くは津波によるものであった。これだけの大きな被害となっ た要因としては、この何百年で、このような大津波の経験がなく、行政や住民にとって津波認識が薄かった こと、大地震で情報が寸断され津波情報を得る手段がなかったこと、などが挙げられる。

 このうち4月11日に起こった震度6弱の余震では、山崩れで4人(うち1人は市外)が犠牲となった。  いわき市における震災に係る死者数および行方不明者数については、福島県警察本部の発表により平成 24(2012)年6月までに死者数310人、行方不明者37人としていたが、福島県が、死者数などの統一的な計上 基準(死者数=直接死者数〈A〉+間接死者数〈B〉+死亡届などを提出した行方不明者数〈C〉)を定めたことにより、 平成25(2013)年2月1日現在では〈A〉293人+〈B〉111人+〈C〉37人=441人となった。いわき市内で亡 くなった方々を住居別でみていくと、平たいらが239人、小はま47人、勿こそが27人、常じょうばんが7人、 内うち

ごう

が12人、四よつくらが35人、遠とおが1人、好よしが3人、田びとが3人、久ひさはま・大おおひさが67人の合計441人となっている。

 このうち市内居住の被害者を年齢別でみると、65歳以上が308人と、全体の69.8%を占めている。20歳未 満は15人で3.4%であった。

② 住家などの建物被害

 東日本大震災の住家被害は市内全域に及び、平成25(2013)年1月1日現在で、 全壊7,909棟、大規模半壊7,276棟、半壊2万5,240棟、一部損壊5万71棟、合 わせて9万496棟に達した。(写真2-41)

 公共施設としては、本庁、支所などの非住家被害118棟、その他2棟であっ た。ほかにも公立小中学校や公民館などの文教施設205か所、病院27か所、市 営住宅59か所、中央卸売市場などの農業関係施設4か所、保育所、高齢者施 設などの社会福祉施設133か所、消防庁舎、消防団施設などの消防施設139か所、 その他清掃センターや運動公園など36か所が被害を受けた。

 大地震と時を同じくして、建物火災が4件、車両火災が1件発生した。特に 久ひさ

はま市街では津波に襲わ れたなか、午後3時44分に 火災が発生し約50棟が延

焼したが、火災そのもので死亡した人はなかった。ほか にも勿こそ地区の内陸部で住宅火災により1人が亡くなっ た。(写真2-42)

 上水道の破損により市内一円が断水となり消火栓から 取水できず、ガレキで道路確保が困難ななか、市消防本 部は水を積載したタンク車を出動させるなどの部隊強化 を行い、火災の延焼拡大を最小限に食い止めた。  阪神・淡路大震災では多くの人々が倒壊した家屋の下

写真2-42 津波被害と火災に見舞われた久之浜市街 写真手前は大久川に架かる蔭磯橋。

〔3月11日午後3時50分ごろ 石川弘子氏提供〕

(5)

 地震が起こったのは、宿泊客に提供する食事の準備をしていたときでした。外に出ると、 地面が割れる大きな音がしており、建物も壊れるかと思いました。

 しばらくして、ふと津波のことが脳裏に浮かび海を見ると、ふだん見えない岩場が見 えるほど波が引いていたため、津波の来襲を確信、大声で「津波だ~」と周りに伝えました。

 その後、民宿に戻りカメラを持って屋上に行き、周りを見渡して見ると、隣の家が津波にさらわれなくなっ ていました。家族や近所の人は津波に襲われながらも、昔から津波の逃げ場と言い伝えられている裏山の背やま

に、なんとか逃げて命拾いをしました。

 津波は8~9mの高さがあったのではないでしょうか。海岸に立つ高さ6mの監視塔が波につかって見えな り、自分の民宿も2階中ほどまで達しました。豊とよの港に係留してあった漁船はみんな沖に流されてしまいま した。怖さはまったく感じませんでしたね。まるで映画のロケを見ているようでした。(写真2-45)

 夜になると、暗闇のなか、沖の水平線には沖に避難した多くの着火船の明かりが煌々ときらめき、心が安ら いだのを、今でも鮮明に思い出します。  翌日、近所に住む従兄弟の妻と孫2人の行方 が分からない、と知らされました。その後遺体 で発見されましたが、家族を亡くした人の辛さ は計り知れず、悲しみは容易に癒えることはあ りません。従兄弟は震災のテレビを見るたびに 心を強くしなければと思ったそうです。  私たちはずっと海を愛し、お潮取り神事(大おおくに たま

じん

じゃ

のお祭りも欠かさず行っていたのに、何 故にこんなことになるのか、残念でなりません。 私たちはこの震災を後世に残していくことが大 切であり、決して忘れてはいけないと思います。

(平成24年1月取材)

鈴木 利明

(民宿経営・平下大越←平豊間)

3       震        災   憶    の 記  

津波で家族を失った悲しさ

鈴木利明さん

写真2-45 豊間海岸の防波堤を乗り越えて集落に押し寄せる津波

〔3月11日午後3時40分ごろ 鈴木利明氏提供〕

敷きになって死亡したが、東日本大震災では地震倒壊のみによる人的被害はなかったものと推量できる。こ

れは阪神・淡路大震災のように、大火災が起きなかったことによるものと考えられる。何よりも東北地方太

④ 交通機関の被害

 いわき市を含む福ふくしまけんはまどおりには、JR常じょうばんせん、 常磐自動車道、国道6号の主要交通網が通じ、ま た福島県中なかどおりとの間にはJR磐ばんえつとうせん、磐越自 動車道、国道49号、同289号などが通じているが、 いずれも大きな被害を被った。

 鉄道、高速バス、路線バスはいずれも全面ストッ プとなった。道路交通も交通遮断が相次ぎ、加え てガソリン不足となり長距離移動はもちろん、市 内移動にも事欠く状態となった。福島臨海鉄道㈱ のコンテナヤードも被害を受け、鉄道貨物輸送も ストップせざるを得なかった。(写真2-46) 平洋沖地震が発生したのが午後の3時近くで、火を使う時間帯

でなかったことが幸いした。

③ 道路・河川、公園などの被害

 身近な道路、公園などの被害も多く発生した。平成25(2013) 年2月1日現在で、道路は2,576か所、橋梁は28か所、河川・ 水路は165か所、崖くずれ326か所、水道は3,499か所、下水道 など1,317か所、農業土木など316か所、林道・治山196か所、 公園・緑地71か所など、多岐にわたる被害を被った。(234ペー ジに記述)(写真2-43)

 震災の影響をほとんど受けなかった福島空港は翌日から臨時便を出して対応した。福島空港のリムジンバ スいわき-福島空港線も震災後、継続運行を実施した。

 また、燃料にLP(液化石油)ガスを使用していたタクシーは震災発生後も運行を続けることができ、数少 ない移動手段として大きな役割を果たした。

⑤ ライフラインの被害

ア 日用品

 震災後、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの小売店では、被災した店舗の復旧作業を進め ながら、在庫がある限り営業を継続した。

 しかし、交通遮断やガソリン不足のなかで物流が滞り、震災後3、4日後には深刻な品不足を来たした。 これら店の前には、震災後の必需品や食品を求めて、長蛇の列ができた。(81ページに記述)

イ 上水道

 上水道については、地震により浄水場から配水池へ水を送る基幹管路で漏水が多発し送水が不能となり、 市内の給水区域ほぼ全域で約13万戸が断水した。また、全面復旧間近の4月11日の余震では、ふたたび約 10万戸が断水する事態となった。(復旧の状況については153 ~ 157ページに記述)

ウ 小規模給水施設、沢水、湧水

 市内中山間部の遠とお、小がわ、三、田びと、川かわまえでは、集落単位で小規模給水施設や沢水、湧水、井戸水を 利用して飲用や生活用水を確保していたが、3月、4月と続いた大地震に

よって水脈が枯渇、あるいは給水施設が破損し、被害は数百世帯に及んだ。 これらの水は一部農耕用としても使用されていたので、被害は一層深刻と なった。(写真2-47)

 これら小規模給水施設や沢水、湧水などが枯渇したのは、地震で地下の 水脈が変わってしまったものと指摘された。

 その一方で、4月11日の誘発地震以降、内うちごうたかさかまちや泉いずみまち(常磐炭鉱通気 口跡)では地下水の異常出水も生じた。(写真2-48)

写真2-43 がけ崩れで市道が交通遮断

(市道宮沢-蛭内線)

〔4月26日 いわき市撮影〕

写真2-46 津波で線路上に散乱する、福島臨海鉄道の機関車やコンテナ

〔3月12日 福島県消防防災航空隊提供〕

写真2-47 渇水した沢(小川町上小川) 震災前は沢水が流れていた。写真中央の黒 い管は地域が運営している水道施設の配管。

〔平成24(2012)年3月 いわき市撮影〕

(6)

写真2-52 総合磐城共立病院における地震直後の屋外避難

〔3月11日 市立総合磐城共立病院撮影〕

エ 下水道

 下水道については、メインとなる北部、東部、中部、南部の4浄化センターともに地盤沈下や壁の亀裂 程度の被害で、応急復旧により各施設とも処理を中断することなく、稼動した。下水を流下させる水路で ある管渠やポンプ場(久ひさはまポンプ場を除く)なども多くの被害を受けたが、応急修理などで機能を維持した。

(写真2-49)

オ 電気

 電気は地震発生直後、市内で2万670戸が停電となった。さらに4月11 日の余震では市内19万9,731戸が停電となった。(写真2-50)

カ 都市ガス

 都市ガスについては、ガス管の破損によるガス漏れなどが市内で発生し、 常じょう

ばん

・内うちごう・好よし地区で1万4,572戸、錦にしき地区で646戸がそれぞれ供給停止 となった。平たいら地区では91戸について、一時ガスを停止する保安閉栓措置 を取った。

キ 通信

 通信面では、震災後、安否確認などの通話が集 中したことから、緊急通報などの重要通信を確保 するため、NTT東日本では最大で90%、携帯電話・ PHS各移動体通信事業者では最大で70 ~ 95%と、 それぞれ通信規制が行われた。また、停電などで固 定電話の交換局や携帯電話基地局が停止したことか ら、市内全域で電話がつながりにくい状態が続いた。

(写真2-51)

 NTT東日本によると、県内では震災直後、光回 線(音声通話、インターネット)の約7万回線、加入電 話は約4万回線が不通となった。

ない、という深刻な事態に直面 し、3、4日後には、在庫ガソ リンを求めて市内各地で給油所 に長い行列ができるなど、市民 生活は大きな混乱に陥った。

(背景や復旧の状況については149

~ 152ページに記述)

⑥ 医療機関の被害

 水道や道路などのライフライ ンが寸断され、医薬品が不足す るなか、市内数多くの医療機関 が休診を余儀なくされた。この ようななかで、市民の生命と健 康を守る使命を持った市立病院 などの総合病院は診療維持に努

ク ガソリン

 東日本の製油所被災や交通網の寸断により、震災直後から深刻な燃料不足が発生した。さらに原発事故の 風評被害によりガソリン流通が止まり、公共交通が震災で動かないなか、自動車で移動するにしても燃料が

めた。(写真2-52)

⑦ 農地の被害

 大地震が引き起こした大津波は、地震・津波 ガレキの流入や塩害となって沿岸部の農地にも 大きな被害を与えた。特に、塩を被った水田で は、表土に塩分が白く浮き上がる状態で、容易 に稲作ができない状態が続いた。(写真2-53)  市内における農地の津波被害面積について は、田が約186ha、畑が約19haに及んだ。

⑧ 漁港などの被害

 市内に点在する8か所の漁港などは、それぞ れ地震と津波、さらには放射性物質による海洋 汚染によって大きな被害を受け、漁業は中断に 追い込まれた。(海の汚染については57、58ページ に記述)

⑨ 工場などの被害

 市内の数多くの工場、事業所は地震、沿岸部 にあっては津波の被害を受け、操業中止に追い 込まれた。(写真2-54)

 火災などの二次災害も懸念され、一部では火 災が発生したが最小限で食い止められ、大事 にはいたらなかった。(操業再開の過程などは226、 227ページに記述)

写真2-48 泉町の常磐炭鉱通気口跡から大量の温排水が噴出

〔6月17日 いわき民報社提供〕 写真2-49 隆起した農業集落排水施設のマンホール

〔3月31日 いわき市撮影〕

写真2-50 倒壊した電柱

〔4月5日 佐藤貴行氏提供〕

写真2-51 大地震直後、多くの人が安否確認で携帯電話などに殺到

〔3月11日 午後3時 いわき民報社提供〕

写真2-53 津波によって押し流されたガレキのほか、塩害に襲われた、 沿岸部の水田(豊間地区)

〔4月1日 佐藤貴行氏提供〕

写真2-54 常磐共同火力㈱勿来発電所内に押し寄せる津波

〔3月11日 常磐共同火力㈱勿来発電所提供〕

(7)

写真2-55 福島第一原子力発電所を襲う津波〔3月11日 東京電力㈱提供〕

写真2-56 大きな危機に陥った3月15日の1~4号機〔3月15日 東京電力㈱提供〕

(2) 原子力発電所の被害といわき市への影響

① 福島第一原子力発電所が被災

 東京電力㈱福島第一原子力発電所では、3月11日の大地震と3時30分過ぎに最高で高さ15mまで来襲し た津波で、運転中であった1~3号機が自動停止(4~6号機は定期点検で停止中)となり、外部からの電源が 失われた。午後3時半ごろ来襲した津波により非常用発電機も使えなくなり、すべての電源が失われてしまっ た。加えて、大津波は施設にも大きな損害を与えていた。(写真2-55)

 平常時は、稼動中は熱を出し続ける原子炉内の燃料や使用済み燃料プールを冷却することで正常を保って いたが、電源が失われたことにより、1号機では原子炉圧力容器内の冷却水は蒸発して原子炉内の温度が上 昇し燃料棒が溶け出し、その日の夕方までには破損する事態となったものと考えられている。これがメルト ダウン=炉心溶融である。

 こうした時間が経過して、熱を帯びた格納容器や原子炉圧力容器が損傷し、3月12日午後3時36分には、 1号機原子炉建屋で水素爆発。天井と壁がすべて吹き飛び放射能が拡散した。2、3号機においても緊急炉 心冷却系の設備がバッテリー切れで止まり、13日午前に3号機、14日午後には2号機で燃料容器の損傷が 始まったものと考えられている。やがて、3号機は3月14日午前11時1分に原子炉建屋で水素爆発、2号 機は3月15日午前6時10分ごろ、圧力制御室付近で爆発が起こった。同日午前9時38分には4号機の原子 炉建屋で火災が発生した。(写真2-56)

 消防車ポンプなどを使った炉心への海水注入・放水による対応は、爆発による車やホースの破損で遅れざ るを得なかったが、その後陸上自衛隊ヘリや警視庁の高圧放水車などによって懸命に散水・放水が続けられ た。しかし、その水は圧力容器や格納容器の損傷で汚染水となって外部へ流れ出した。本来冷却を目的とし ていた注入・放水が、この後皮肉にも原発復旧を阻む大きな壁になろうとは考えていなかった。

 この間にも、12日から13日にかけて、格納容器の破損を防ぐため、放射性物質を含む蒸気を意図的に外 部へ放出して炉内の圧力を減らす「ベント」作業を行った。

〈原子力発電〉

 頑丈なお釜(原子炉)の中で人工的にウランなどの放 射性物質を核分裂させ、その時に発生する大量の熱で 水を沸騰させて蒸気をつくり、これを発電機につながっ た巨大な羽根車(タービン)に吹き付けて回転させ電気を 生み出すのが原子力発電である。(図2-29)

〈放射能〉

 放射能とは、原子核が崩壊して放射線(粒子線あるい は電磁波)を出す能力のことで、放射能を有する物質(放 射性物質)からは自発的に放射線を放出する性質を持つ。  たとえて言うと、電球を放射性物質、電球から出る光を放射 線とすると、放射能に比するのは電球が光を出す性質、または 能力ということになる。したがって、核施設から漏れ出すのは 放射性物質や放射線であって、「放射能汚染」や「放射能漏れ」 は誤用となる。(図2-30)

〈放射性物質〉

 放射性物質は例外なく不安定な物質であり、放射線というカ タチでエネルギーを放出することにより、安定した他の物質に 変化しようとする性質を持つ。つまり、放射能の強さはいつま でも持続することはない。(図2-31)

震災クリップ② 原子力発電、放射能、放射性物質とは

図2-29 原子力発電のしくみ

図2-30 放射性物質、放射能、放射線の概念

〔資料:文部科学省ホームページから掲載〕

(8)

図2-32 ベクレルとシーベルトの違いのたとえ

 これら放射性物質のうちには、急激に放射線を出して他の物質に変わってしまうのもあれば、放射線を 長くゆっくり出し続ける物質もある。たとえばウランは後者の代表で、原子力発電所で運転する前の燃料 からはほとんど放射線が出ない。(ただし、強さが半減するのに45億年かかる)

 放射能の強さはベクレルという単位であらわすが、もっとも高いのがプルトニウムで、ウランに比べて 毒性が桁違いに高い。

 原発事故によってもっとも放出される割合の高い放射性物質が「ヨウ素」である。放射性ヨウ素131は、 気化して大気中に広範囲に拡散しやすいうえに、呼吸や飲食によって体内に吸収されやすい。つまり呼吸 や飲食によって体内に入る内部被曝を起こしやすい物質である。しかし、ヨウ素の放射能は8日に半分と いう割合で減り、半年後には1億分の1まで減少するという特徴を持っている。このヨウ素は最初の事故 段階で多く放出された経過がある。

 これに対し、セシウム137の放射能は30年でようやく半分で、内部被曝と身体の外からの外部被曝とい う両面の被害を及ぼす可能性がある。

 ちなみに、健康に良い温泉とされているラドンやラジウムも放射性物質の一種である。微量や少量の放 射線によって、免疫力の増強、抗酸化体質の増強などの効果が期待されることは、「ホルミシス」と呼ば れて研究が進められている。

〈ベクレルとシーベルト〉

 放射線は遺伝子(DNA)をはじめ、身体の大切な構成成分を傷つける。放射線に関して、ベクレルとシー ベルト、あるいミリシーベルトという言葉をよく耳にするが、この違いは何だろうか。端的には、ベクレ ルは水や食べ物に含まれる放射性物質が放射線を出す量(1秒間に1個の原子核が崩壊して放射線を放つ量を1ベ クレル)であり、影響を表す量ではない。一方、シーベルトは生体へ影響の度合いを表す量である。したがっ て、放射線が生体に与える影響はベクレルで比較するのではなく、放射線の種類、エネルギーの大きさな 図2-31 日常生活と放射線の関係〔資料:文部科学省ホームページから掲載〕

10,000

1,000

100

10 100,000

50,000 250,000

宇宙から390 食物から290

大地から480 空気中の ラドンから1260

② 放射性物質の拡散

ア 偏西風の吹くころ

 12月の季節風が吹くころから3月過ぎまで、東日本では偏西風が強く吹く。

 昭和19(1944)年の暮れから翌年3月ごろまで、日本陸軍は勿来基地(現いわき市こそまちせきなど東日本3か 所から、気球に焼夷弾を付けた風船爆弾をアメリカ本土に向けて飛ばすという秘密作戦を実行したことが あった。

 つまり、この時期であると、いわき市を含む東北地方など東日本では、爆発などで拡散した放射性物質は、 偏西風に乗って、海上へ流れ出る可能性が高かった。

 しかし、3月になると冬型の気圧配置は長続きしなくなる。

イ 3月の天候変化と放射性物質の拡散状況

 高気圧が移動性となって、寒さが緩む代わりに低気圧が通過するとき、風向きはめまぐるしく変化する。 原子力発電所事故の影響は気圧配置の変化と密接な関係を持ちながら起こったものであった。

 浜通りが晴れのパターンとなる冬型の気圧配置が崩れ、3月15日には次第に天候は下り坂へ向かっていっ た。それまで東へ流れていた放射能物質は次第に時計回りに向きを変え、早朝、いわき市に流れ込み、市内 へ放射性物質が北東からの風に乗って市内へ拡散した。午前4時には、23.72マイクロシーベルト/時を記 録した。(後に、午前0時2分に福島第一原子力発電所2号機で実施したベントが失敗し、放射性物質を含む蒸気が外部放出

(放射性物質)たき火 (放射線)

○ベ ク レ ル≒たき火の熱さ

○シーベルト≒たき火から届く火の温かさ

15日(火)再び近づく寒気

晴れた西日本は前日の暖かさが残るが 北から徐々に寒気が流入、北陸・関東

~北日本は気温が上がらず、最高気温 の前日差-6 ~-10℃。

【天気図(3月15日 午前9時)】

いわき市

【3月15日 午前3時の気象と放射性物質の拡散状況】

放射性物質の流れ 風向(風速3m/秒以上) 風向(風速3m/秒未満) 雨の区域

どを考慮した数値シーベルトで比較する必要がある。ちな みに、食品の安全基準や土壌汚染度はベクレル、空間放射 線量はシーベルトで表示される。

 両者の関係では、例えの一つとしてたき火と人の関係で 考えられる。つまりベクレルはたき火そのものの温度、シー ベルトはたき火から近い、遠いで人が感じる温かさを表す と。(図2-32)

 なお、1シーベルトの1,000分の1が1ミリシーベルト、1ミ リシーベルトの1,000分の1が1マイクロシーベルトを表す。

(9)

図2-33 3月15日における放射性物質の拡散状況と気象〔資料:国立情報学研究所および気象庁、東京電力㈱のデータから作成〕

図2-34 福島県内の原発事故周辺における放射線量(最高値/日)の推移(単位:マイクロシーベルト/時)

〔資料:『放射能モニタリング情報 文部科学省』から掲載〕 いわき市

【3月15日 午後2時の気象と放射性物質の拡散状況】

放射性物質の流れ 風向(風速3m/秒以上) 風向(風速3m/秒未満)

いわき市

【3月15日午後6時の気象と放射性物質の拡散状況】

放射性物質の流れ 風向(風速3m/秒以上) 風向(風速3m/秒未満) 雨の区域

0.10(いわき市) 23.72

18.78

1.49 1.19 1.11 0.89

6.00

2.52 3.43 1.86

22.10

4.05 3.48

7.29 5.48

6.78

2.93

1.92 1.60 0.10(福島市)

24.24

21.40

14.80 12.70

11.10 10.10

8.06 7.19

6.09

0.06(郡山市) 8.26

3.18 3.75

2.83 2.68 2.57 2.54

1.94 1.66 0.00

5.00 10.00 15.00 20.00 25.00

14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日

いわき市 南相馬市 福島市

郡山市

[資料:『放射線モニタリング情報 文部科学

 地震当時、病院で回診をしている時で、思わずベッドを押さえていました。全館停電 となったため、非常用電源に切り替えられました。患者の安否確認をしてテレビを見る と、大津波警報。とっさに移動・避難方法を考えましたが、移動可能な患者が少ないので、 比較的高い病棟へ移すしかありませんでした。

 地震から40分、大津波が来襲し、東側の窓を突き破って入ってきました。外来棟は床上30cmの浸水。患者を 避難させた病棟は幸い床上まで来ませんでした。しかし、共同アンテナが損傷してテレビは映らない、電話は 通じない、ラジオが唯一の情報源でした。電気の復旧に1週間、水道の復旧に1か月かかりました。

 3月14日にアンテナが持ち込まれ、テレビを見ることができるようになりましたが、いきなり画像に映った のは原発爆発のシーンでした。夕方に非常用電源が一時故障。この先を考えると、全患者移送が最善策として、 15日朝から、自衛隊ヘリなどを使って分散による移送を開始しました。

 その後は、職員を1週間交代で患者避難先に派遣する一方、リハビリ、薬剤師、栄養士などが市の災害対策 本部に入って支援し、避難所巡回を実施しました。

 省みるに、情報の受発信は重要であり、また電源の確保、備蓄計画や現実的な避難対応マニュアルの作成など、 構築していかなければなりません。病院は9月から元どおり稼動していますが、今後、豊とよ地区の復興計画と 歩調を合わせて、検討していきたいと考えています。 (平成24年2月取材)

関  晴はれあき

(独立行政法人国立病院機構いわき病院院長)

4       震        災   憶    の 記  

テレビで原発事故を知り、患者輸送を決意

関 晴朗さん

したことが判明)(図2-33)

 さらに、午前6時10分に2号機で爆発、その後4号機でも爆発・火災が発生。大量の放射性物質が発電 所外へ漏れ、この間風向きはさらに時計回りで回転、やがて北西へ向かう風に飛ばされ、発電所の北西側、 阿くまこう方面に流れ込み、15日夕方から翌朝に降った雨や雪で大気中から降下して、土壌に沈着した。  この3月15日の降雨による放射性物質の降下は、後の警戒区域、計画的避難区域などの区域設定などに 大きく影響を及ぼした。(図2-34)

 次いで3月21、22日の降雨も放射性物質の降下と関わりを持った。これにめまぐるしく変わる風向きが

絡んだ。20日から22日にかけ南東からの風で遠く岩手県、宮城県へ、さらに北からの風で、いわき市を通 過して南下、遠く関東地方西部まで運ばれ、雨や雪で降下したものと考えられた。

 これら風の変化と飛散状況、ホットスポットが、この後に放射能物質の濃度と広がりに絡んで東日本の住 民に混乱をもたらし、さらには風評被害や除染対策など日常生活まで深く影響を及ぼしていくことになる。  3月下旬以降は原子力発電所からの放出量も減り、各地への影響は比較的小さくなった。

 いわき市においては、3月13日午前7時から、県合同庁舎駐車場(福島第一原子力発電所から南南西約43km) で空間放射線量の測定を開始した。3月15日午前4時には23.72マイクロシーベルト/時(いわき市における放 射線量の最高値)、翌日に18.78マイクロシーベルト/時を記録。その後、急速に低減、3月21日に一時6.00マ イクロシーベルト/時に上昇したが、以後は逓減傾向をたどった。(図2-35)

 まさに放射能物質の飛散量と風向きの相関が、その後のいわき市の放射線量の数値に決定的な影響を与え たことがわかる。

図2-35 いわき市における放射線量の推移 0

5 10 15 20 25

0.11 0.39 0.18

1.10 0.85 2.52 6.00

0.89 18.78

5.45 2.77

9.30

3.94 9.57 23.72

13.28 18.04

4.22

0.09

事故発生時からの放射線量の推移

※東京電力福島第一原子力発電所事故の推移(抜粋) 3/12 15:36 福島第一原発1号機原子炉建屋で水素爆発 3/12 18:25 【政府指示】福島第一原発半径 20km 圏内避難 3/14 11:01 福島第一原発3号機原子炉建屋で水素爆発 3/15 6:00 福島第一原発2号機格納容器圧力抑制室付近で爆発音 3/15 6:10 同4号機原子炉建屋で水素爆発

3/15 9:30 市独自の判断で、不要不急の外出は避けるよう呼びかける 3/15 降水量

欠測中(降水は市内で確認)

3/21 降水量 11.5mm

24 4

24 3

24 2

24 1

23 12

23 11

23 10

23 9

23 8

23 7

23 6

23 5

23 4 3 31 3 30 3 29 3 28 3 27 3 26 3 25 3 24 3 23 3 22 3 21 3 20 3 19 3 18 3 17

0 18 16 12 10 8 4 3 16

0 22 20 18 16 14 12 10 8 7 6 5 4 3 2 1 3 15

0 3 14 3 13

23

測定場所:県いわき合同庁舎(1m 測定高さ)

※ 放射線量の値は、福島県発表「県内 7 方部環境 放射能測定結果(暫定値)」より抜粋。

(測定日)

(10)

 昭和20(1945)年8月、広島と長崎に原爆投下され未曾有の被害を受けた日本はポツダム宣言を受け入れ、 無条件降伏で長い戦争は終わった。日本国民にとって原子力は悪魔のような存在であった。

 しかし、戦後の政治情勢が原子力の存在を大きく変えていく。第二次世界大戦をリードしてきたアメリ カとソ連の対立が深まり、いわゆる「冷戦」状態に入ると、原子力の取り扱いも変化していく。唯一の原 子力保有国であったアメリカに次いで昭和28(1953)年にソ連が水素爆発の実験に成功すると、戦争のため の原子力行使は容易にできなくなり、原子力開発に巨額を投資したアメリカは、これを平和利用のため に転用する方向へ転換し、友好国に推進を促す。日本は昭和26(1951)年に独立国として承認されたものの、 戦災復興をめざしアメリカを主体とする連合国軍総司令部(GHQ)の間接統治政策の延長上にあったため、 唯一の被爆国であった日本も、アメリカ推進の原子力発電所を代表とする原子力平和利用を受け入れざる を得ない状況となっていった。

 時期尚早、絶対反対などの声もあったが、「原子力基本法」をはじめとする関連法案は、昭和30(1955)年 12月に公布され、国民の関心は原子炉製造計画、具体的には設置場所に向けられた。

□      □  これとは別に、政府は戦後復興をさらに確実な

ものとするため、アメリカのミシシッピー川の総 合開発を手本として、広域的な開発整備によって 日本経済を再建・発展させようとした。

 福島県は昭和25(1950)年に公布された「国土総合 開発法」に基づく開発計画によって“農業県”から 脱皮する契機として、この法律を視野に入れ、昭 和25(1950)年に福島県産業振興計画を発表し、指定 された只ただがわ水系の一角に多目的ダムを建設する とともに、小はまこうを持ついわき地方を重点地域 に据え、工業を発展させようとした。

 いわき地方全体では昭和28(1953)年に、関係自治 体、機関・団体などが一体となって地域開発の事 業案件を円滑に進めるための組織である、「常じょうばん地 方総合開発期成同盟会」(会長=福島県知事)が発足 した。(これらの動きは昭和39(1964)年における「常磐・ こおり

やま

地区」の新産業都市指定、さらにはいわき市の誕生へ つながっていく)

 この動きに触発されるように、各地で大規模な 開発計画が浮上する。時は昭和30年当初から始ま る高度経済成長期の真っ只中。日本経済は成長を 続け、その勢いはとどまることを知らないように みえた。

 只見川の電源開発に着手していた福島県は、県 内の均衡発展を図るために、原子力発電に着目し た。原子力発電には大量の水を必要とした。広大 な未利用地も必要とした。当時、福島県は工業化

の進むいわき地方に対し、隣接しながら開発が遅れていた双ふた地方への社会資本の投資も課題となってい た。こうして、国と県の政策が一致し、建設へ向け下地づくりが行われた。(写真2-58)

 昭和39(1964)年11月に東京電力㈱は福島第一原子力発電所の建設計画を発表する。

震災クリップ③ 福島県の地域開発と原子力誘致

写真2-58 福島第一原子力発電所の建設用地

〔福島県ホームページ『原子力発電所建設の経緯と現状』から掲載〕

写真2-59 完成後の福島第一原子力発電所

〔東京電力㈱提供〕

 その後、反対運動もあったが、豊かさへの志向が優先された。昭和46(1971)年3月、大おおくままちと双ふたまちに またがった場所に福島原子力発電所1号機を稼動させ、以来大震災が起こるまでに6基の発電施設を設置 した。(写真2-59)

 次いで昭和57(1982)年4月、楢ならまちと富とみおかまちにまたがった場所に福島第二原子力発電所1号機を稼動さ せ、以来大震災が起こるまでに4基の発電施設を設置した。

 合わせた発電量は909.6万kw、日本の原子力発電電力量の約20%を占め、電力消費量の多い首都圏を中 心に送電を続け、日本有数の電力供給地に成長した。それが平成23(2011)年3月11日の事故で暗転した。

図2-36 土壌濃度マップ

(80km圏内のセシウム134、137の地表面への蓄積量の合計)

〔資料:文部科学省データから掲載〕 写真2-60 除染作業を実施(川前町)

〔12月14日 いわき市撮影〕

③ 土壌汚染

 放射性物質が降り注いだ土壌は、「汚染」となって住 民を脅かした。(図2-36)

 私たちが現に居住していることに加えて、農産物、林 産物とさまざまな影響を及ぼすことになり、汚染を除去 するための人的・金銭的な投入は長期間かつ膨大に及ぶ ことになった。官民をあげての除染活動が推進されるの は、原子力発電所事故が起こった年の後半からであった。

(写真2-60)

3,000,000-30,000,000 1,000,000-3,000,000 600,000-1,000,000 300,000-600,000

<300,000

測定結果が得られていない範囲 福島第一原子力発電所 Cs-134及びCs137の合計の蓄積量(Bq/㎡) [4月29日現在の値に換算]

×

④ 放射能汚染水の流失と海洋汚染

 福島第一原子力発電所では、事故直後から原子炉の燃料冷却のための注水と、漏れ出した汚染水の浄化処 理が続けられ、扱う水の量は増加をたどった。これに原子炉建屋への地下水流入も重なった。

 この水には当然高濃度の放射性物質が含まれており、しかも破壊された建屋が海と接していた。容易に汚 染水を食い止められない状況のなか、汚染水は海へ流出し、海を通じて無限に広がることになった。(図2-37)  そのほか、事故に伴って大気中に飛ばされた放射能物質は自然にあるいは雨や雪などで落ち、山野から河 川や地下水を伝って平地へさらには海に流入することが想定された。

(11)

図2-37 海域における放射能濃度のシミュレーションについて

〔資料:(独)海洋研究開発機構ホームページから、一部改変して掲載〕 10

0

10

10 0

1000

10 100

10 00 10

00 0

10 10

0

1000

10 10 1 0 00 0

表面海水中のセシウム137濃度(ベクレル/ℓ) 3/23~5/7

10

100

10

10

10 0

10

10

10

10

10

10

注1)事故前(1994)の福島沖(約30km)表面海水のセシウム137濃度は、約0.003ベクレル/ℓ。 Kasamatsu and Inamori(1998)  2)図上の「●」が福島第一原子力発電所の位置。右側部分が太平洋。

3月23日

3月27~28日

4月1~3日

4月5~7日

4月11~13日

4月17~19日 4月25日

4月29日

5月3日

5月7日

 このこととは別に、水を集めるための施設を復旧させ、さらに施設増設を図った過程において、高濃度の 放射性物質を含む汚染水の貯蔵先を確保するため、4月に低濃度の汚染水を海へ放出。平成23(2011)年12月 には浄化システムで処理した水約150ℓが海へ漏出した。

 放射性物質は日を追うごとに沿岸、沖合へ、黒潮の影響を受けながらも複雑な渦に巻き込まれながら東へ 流されていった。しかも放射性物質は粘土質に吸着されやすい一方、砂地では流されやすいという特性を持 ち、海底土壌の質の違いで汚染にも差が出た。

 海の汚染は漁業に大きな影を落とした。魚の種類や生息場所によって差が出たが、いずれにしても、海洋 汚染の長期化が懸念され、福島県、いわき市における漁業全体のイメージをおとしめた。

参照

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